旅立ち

火曜日。朝からぼたん雪が降り続いた寒い日。
母方の祖母が亡くなったとの知らせを受けました。九十七歳でした。

私が結婚して家を出てからのこの十年あまりの間に少しずつ認知症が進行し、身体はこれといって悪いところはないものの、ここ数年は一緒に住んでいる私の母も大変な状況でした。
去年、やっと介護認定を受けてショートステイを利用するようになった頃から認知症の進行もいっそう激しくなり、最後の方は、実家に会いに行っても孫である私の存在を認識できなくなっていて・・・。
ただ、こんなふうに書くとすごくつらいことのようですが、祖母の中で、私は介護施設の職員という設定になっており、はにかんだような笑顔で自分の娘達(私の母と伯母)の自慢話をこっそり(まわりには聞こえてるけど)教えてくれたりして、この時期の祖母との時間は私にとってほのぼのとしたあたたかいものでした。
祖母の笑顔を見ているとなんだかこちらも嬉しくなって、こんな平和な時間をあとどのぐらい一緒に過ごせるのかな・・・と、ぼんやり思ったものです。

私の母は体が弱く、あまりあちこち出かけられない時期がありました。
祖母は、そんな母のために、私が生まれる少し前に勤めをやめ、一緒に私を育ててくれた大きな存在でした。
学校行事や習い事の送り迎え、ピアノの発表会の付き添い、時にはPTA役員の仕事の手伝いまで・・・母の調子が悪い時には元気な祖母が一手に引き受けてやってくれていました。
祖母がそばにいたから、母も安心して私を産んでくれたのではないかと思います。
去年の秋、同窓会で久しぶりに再会した幼なじみからも、当然のように「おばあちゃん、元気にしてはる?」と訊かれました。
子どもの頃、外出する時はほとんど、母と祖母がセットになって私についてきてくれたので(子ども心にはこれがちょっとうっとおしかった^^;)、母と私だけでどこかに出かけたという記憶の方が珍しいぐらいです。

この日は朝起きたら冷たい雨が降っていて、それがいつのまにかぼたん雪に変わっていました。
それでも、長男と夫を送り出し、雪で自由登園になった幼稚園へ次男を連れてゆき、家事を片づけ始めた頃には雪はやんでいたので、ああいつもと同じ、やっぱりこの辺の雪はたいしたことないなあ、と思っていたのです。
それがまたしばらくしたら静かに雪が降り出して、どんどんまわりの家の屋根が白く染まってゆき、山の方はすっかり雪景色に変わり・・・
その時にふと、「ああ、なんかこういう感じの時って、人が亡くなりそうやな・・・」と思いました。

ここ数日、調子が悪そうだと聞いていた祖母の訃報が入ってきたのは、それからまもなくのことでした。

朝、幼稚園から戻ったら、午前中に何も予定のない日は、短い時間でも必ずピアノに向かうようにしているのですが、この日はなぜかどうしてもそういう気分になれなくて、胸の辺りに何か重苦しいつっかえのようなものがありました。
こういう時は無理にピアノには向かわないでおこう、と思い、淡々と家事を片づけていた時に入った悲しい知らせでした。

本当に元気で、生前冗談で「私、ちゃんと死ねるんかなあ?」などと言っていた祖母。
その祖母が去年の秋に倒れて入院し、年齢を考えれば覚悟は決めておかなければならないことはわかっていたのですが、私自身、「その日」が来ることをうまく想像できずにいました。でも、「その日」はちゃんとやってきました。降りしきる雪の中、ふわっと、音も立てずに、さりげなく、祖母は逝ってしまいました。

認知症が進行し始めてからも比較的元気で、なにより食べることを楽しみにしていた祖母。
仏壇に供えた大量のお菓子をいつのまにかこっそり平らげてしまうなんてしょっちゅうでした。
ちょうど一年前の今頃腸捻転で入院、もう高齢のため手術も難しく、これ以上手の施しようがないので覚悟しておいてほしいとお医者様には言われており、もちろん絶食状態だったのですが、ある日私が次男を連れてお見舞いに行くと、顔色も良くニコニコしながら、次男が食べようとしていたお菓子に「ちょうだい」と手を伸ばしてきたのには、ひっくりかえりそうになりました。この日のうちに検査を受け、奇跡的に快復していることがわかって、主治医の先生をはじめまわりの皆は本当にびっくり。
今回倒れる直前も、自宅で、食後に何度も「おいしかった、ありがとう」と繰り返していたといいます。
でも、倒れて入院してからは、口からは何も摂ることができなくなりました。
家族も延命措置を選ぶという意識もないまま、気がついたら祖母は栄養や抗生剤の点滴をつないでもらっていました。
その点滴に頼らなければ、終わってしまう命。
このことについては、ほんとうに色々と考えさせられました。もし、選択が可能だったとしたら、母も伯母も、延命は望まなかったかもしれません。
ただ今は、祖母は私たちにゆっくりお別れを言うための時間を作ってくれたと思っています。
思えば認知症の進んだこの十年あまり、祖母はゆるやかにゆるやかに、私達にさよならを言い続けてくれていたようにも見えました。
少しでも、皆がたくさん悲しまないように、淋しがらないように、びっくりしないように、少しずつ、少しずつ、あちら側へ移ろうとしている・・・そんなふうに私には思えました。

子ども達は、去年の夏休みに実家に遊びに行ったのが、元気な祖母とゆっくり過ごした最後の時間になりました。
夏休み明けからは、祖母の話し相手にでもなればと、私が都合のつく日に幼稚園の預かり保育も利用して、時々会いに行くようにしていました(話し相手がいないとずっと母のことを呼び続けるので)。
祖母は気持ちだけどんどん若返り、昔のことをよく話してくれました。
九十七歳という高齢も高齢、祖母自身、親しかった友人知人のことなどもどんどん忘れ、現在の消息などまったく気にしなくなっていましたが、実際、母が祖母の訃報を届けたくても、まともに連絡のとることのできる相手はもうごく限られた数になってしまっているそうです。
あの世に行って、今頃は、賑やかにお友達と再会しているといいな。

この日はお昼から小学校の今年度最後の参観があったので、行ってきました。
自分の小さい頃についての作文を、写真付きで一人ずつ発表するという内容。
皆、クラスのお友達の前できちんと発表できていて(我が子は照れくさかったのか、最後の方はボソボソと小さい声になってしまいイマイチであったが^^;)、確実に成長してるなあと感じました。もうすぐ三年生やもんね。
たまたま担任の先生が、自分のお兄さんのところに赤ちゃんが生まれたばかり・・・というお話をされました。
新しい命は、本当に喜びにあふれながらこの世に迎えられ、だからこそ旅立つ時はこんなにも寂しい。でもそうやって、命は順番に巡っていくんだね。

告別式が金曜日に決まり、祖母はいったん自宅に帰ることになったので、私も昨日、次男だけ幼稚園を休ませ、一緒に実家に会いに行ってきました。
最後は病院で、家族は間に合ってあげられなかったので、一度、自宅に連れ帰ってやることができて、本当によかったと思います。
祖母が生前好きだったチョコレートを枕元にお供えして帰ってきました。すっかり冷たくなっちゃったけど、毎日大切に拝んでいた仏壇の前で、とても安らかな顔で寝ていました。

次男は当然ですがまだ事情がよくわかっていません。連れて行く時に一応説明はしたのですが「へ?どーゆー意味?」と聞き返されました(笑)。
長男への説明・・・これがもう、泣かれるのがこわくて私もなかなか切り出せず、昨日の晩にやっと意を決して話したのですが、もう、説明途中からどんどん表情が曇っていき、シクシク泣き始め、30分・・・1時間ぐらいは泣いていたでしょうか。
でも、泣きながら言った一言目が「イタコに会いたい」だったのには、笑ってしまった。
だいじょうぶ、大ばあちゃん、いつでも空の上から見守ってくれてるから、という話をしました。
考えてみると、私は自分の曽祖父母には誰一人会ったことがありません。
皆、私が生まれるより先に亡くなってしまっています。
息子達には、曽祖父母が何人もいて、抱っこしてもらったり、お話したり・・・これは、改めてすごいことやなあと思います。

今晩と明日は、家族皆で最後のお別れにいってきます。
おばあちゃん、本当に今までありがとう。かけがえのない愛情を、たくさんありがとう。
九十七年間、本当に本当にお疲れ様でした。